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早教育と天才(前編)【この書は育児に革命を起こすだけでなく人類の歴史を変える可能性を秘めている!!】

やるのは面倒だし、そもそも早教育って本当に意味があるの?

そんな風にお考えの方にお勧めしたいのがこの「早教育と天才」という本です。

僕はこの本を読んで衝撃を受け、我が子にはこのような教育を施そうと心に誓いました。

この本を読んだおかげで、日々意味があるのかわからないし、子供の気分にも左右される早教育に励めていると言っても過言ではありません。

ぜひ読んで欲しいのですが、そんな時間はないよという方向けに簡単に要点をまとめていきます。

それでは前編いってみましょう!

第一章:早教育は英才を創る

アメリカのハーバード大学をわずか15歳で卒業したウィリアム・ジェームズ・サイディス。

同大学を16歳で卒業したアドルフ・バール。

14歳でタフト大学を卒業し、18歳でハーバード大学院を卒業したノバート・ウィーナー。

彼らには共通点があった。それは、「カール・ヴィッテの教育」という本を読んだ両親から教育を施されたということだ。

ドイツの法学者カールヴィッテは、村の牧師である父から特殊な教育を受けた。

父の考えはこうだ。子供は赤子の時から教育しなければならない。すなわち、子供の教育は子供の知力の始まりとともに始めなければならない。早教育すれば、たいていな子供は非凡な人になるという確信を抱いていた。そして、自分の子供にそのような教育を施した。

ヴィッテはすこぶる思わしくない赤子であり、父は「どんな罪のために、神はこのような痴鈍な子を私に下さったのであろうか」と悲しんだ。近所のものも、ヴィッテは確かに白痴だと信じていた。

しかし、父は失望しなかった。そして、着々と自分の計画を実行した。初めのうちは妻までが、「こんな子は教育してもダメです。何にもなりません。徒労です。」と言って、彼の熱心左には同情しなかった。ところがこの痴鈍児は、間もなく近所のものを驚かすに至った。

父からどんな教育を受けたかは次からに述べるが、その結果だけを述べるが、彼は8・9歳でドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、英語及びギリシア語の6ヵ国語が自由にできた。また、動物学、植物学、物理学、化学、特に数学が非常にできた。その結果9歳の年、ライプツィヒ大学の入学試験に合格した。そして、1814年4月、わずか14歳で数学上の論文によって哲学博士の学位を授けられた。また2年後、16歳で法学博士の学位を授けられ、更にベルリン大学の法学教授に任命された。

しかし、彼は教鞭をとる前に、プロシア王のお金でイタリアに入学した。そして、ふとダンテの研究を始めたが、ダンテが甚だしく誤解されていることを発見して、ますますその研究を進め、23歳で「ダンテの誤解」という本を出した。彼の専門は法学であったが、彼は法学の傍、その後もダンテの研究を継続して、ついにダンテ研究の第一人者となった。

21歳で帰国し、プレスラウ大学で法学の講義を始め、34歳でハレ大学に移って、83歳の恒例で永眠するまで講義を続けた。

ヴィッテの父がヴィッテが14歳になるまでの教育を本に書いたのが「カールヴィッテの教育」なのである。

この本はほとんど無くなってしまい、現存しているものはとても少ない。ところが、面白いことにハーバード大学の図書館に一冊残っている。これはアメリカにおける唯一のものだそうである。そして、サイディス君・バール君・ウィーナー君の親たちはハーバード大学に関係する人物であり、この本を読んでいた。要するにサイディス君・バール君・ウィーナー君は、ヴィッテのような教育を受けたのである。

ギリシアの歴史を見ると、アテネは数多くの天才を排出したが、早教育は彼らの習慣であった。

ニュートン以来の大物理学者ゲルヴィン卿ウィリアム・トムソン、哲学・経済学・政治学・倫理学・論理学その全てで突出した成果を出したジョン・スチュワート・ミル、詩人ゲーテ、24歳で首相となったピットなどなど、早教育を受けた偉人は枚挙にいとまがない。これらの例を見ると、早教育は英才をつくるという信念は、決して根拠のない信念でないことがわかる。

子供のの可視能力には、逓減の法則がある。例えば、100の可視能力を受けて生まれた子供を生まれた時から理想的に教育すれば、100の能力を備えた人になるが、5歳から教育すれば、理想的に教育しても80度の能力を備えた人にしかならない。また、10歳から教育すれば、理想的に教育しても60度の能力を備えた人にしかならない。すなわち、教育を始めることが遅れれば遅れるほど、子供の受けて生まれた可視能力の実現する割合が少なくなる。これが子供の可視能力の逓減の法則である。

国民教育が普及してから、名人がいなくなったとは、色々な手職について聞くところである。外国語は10歳前から始めなければ、本当に自分のものにはどうしてもならない。西洋ではピアノは5歳、バイオリンは3歳から始めなければ一流にはなれないという。我々の能力はその発達期に発達の機会を与えなければ、1つ1つ枯死してしまう。その結果、子供の可能能力の逓減という現象が現れるのである。

早教育は子供の健康に害があると思っている人もいるが、彼らは健康そのものであった。ヴィッテは83歳、ケルヴィン卿も83歳、トムソンは70歳、ゲーテも83歳、ミルは67歳、ウエストベリー卿は73歳までと、平均寿命が40代というこの時代においてはかなり長生きした。だから、早教育が子供の健康に害があるとは根拠のない説である。

 

第二章:ヴィッテの教育

ヴィッテの父はまず結婚論についてこう考えていた。

我々は我々の子供を、できるだけハンディキャップを少なくしてこの世に出す義務がある。すなわち、できるだけ優秀な精神と、できるだけ健全な体を与えてこの世に出す義務がある。そしてこの義務をよく果たすには、まず子供を作る前に、我々自身の精神と体に、十分気を付けなければならない。すなわち、衣食住を質素にし、よく清水をのみ、しばしば野外の新鮮な空気を吸って、心を平和に保ち、できるだけ感情を激させないで、満足した生活を営まなければならない。そうすれば、たいてい心身の健全な子供ができる。

男子は父となる前に、十分体を鍛錬し、できるだけ精神を発達させて、妻には健康で、精神のよく発達した、心情の高潔な女子を選ばなければならない。我々は何よりもまず、健康で、頭の良い、善良な女子を妻に選ばなければならない。

次に妻が妊娠すれば、いっそう生活を端正にしなければならない。これは妻についてのみ言うのではない。夫婦双方について言うのである。すなわち、質素な飲食物をとり、決して刺激物を用いず、清水をのみ、野外で運動し、体を清潔にし、その日その日の職務を几帳面に遂行し、人と安らぎ、神を信じ、よく笑い、よく楽しみ、安心満足した生活を営むのである。

彼は100年前に、すでに人種改良論を唱えたのである。

しかし、彼の議論の中で、最も驚嘆に値するのは教育論である。その意味はこうである。

人並みの子供なら、しっかりと教育すれば、必ず非凡な人になる。子供の才はもちろん千差万別である。あるものは多く、あるものは少ない。仮に我々は、最も幸運に生まれた子供の才能を100としよう。そうすれば生まれつき白痴の子供の才能は10以下であろう。そして人並みの子供の才能は50前後である。

全ての子供が同様な教育を受ければ、彼らの運命は才能の多少によって定まる。しかし今日の子供は一般に非常に不完全な教育を受けているから、彼らの才能はその半分も発揮されていない。80の才能なら40ぐらいだし、50の才能なら25ぐらいである。しかし、才能の8~9割を発揮できる教育を施せば、50くらいな才能をもった子供でも40ぐらいの才能を発揮できるようになる。もし、豊かな才能を持って生まれた子供に賢明な教育を施せば、その結果はほどんどはかり知ることができない。

子供の能力を早くから働かせるには、順序を追って進まなければならない。出なければ、その目的を達することができない。子供の能力を早くから働かせるには、早くから言葉を教えなければならない。これは極めて大切なことである。思うに言葉は、我々が知識を刈り取る道具であって、この道具がなければ、我々は知識を取り入れることができないからである。子供も早くから言葉を覚えなければその能力をよく発達させることができない。だから子供の能力をよく発達させるには、どうしても早くから言葉を覚えさせなければいけない。

ヴィッテの父は、ヴィッテが物心がつくとすぐに、以下のような方法で言葉を教え始めた。

例えば我々は、息子の目の前に指を出して動かして見せる。すると息子は、それを見つけて掴もうとする。しかし、初めのうちは、検討が違ってなかなか掴めない。しかしついに成功する。すると息子は非常に喜んで、それを口に入れて吸い始める。その時我々は緩やかに、そして明晰に、「指、指」と数回発音して聞かせる。

彼はこのように、目の前にいろいろなものを出して見せて、その名を緩やかに、そして明晰に、数回発音して聞かせることを始めた。するとヴィッテは、まもなくその物の名を、明瞭に発音することができるようになった。

次に、ヴィッテの父は、ヴィッテを抱きながら、食卓上の器具や食物や、体の部分や、着物の部分や、室内の器具や品物や、家屋の部分や、庭園の草木や、その部分など、少しでもヴィッテの注意をひく全てのものの名を教えた。また、他の言葉(動詞や形容詞など)も教えて、ますますその語彙を豊富にした。

子供の語彙を豊富にするにしても、頭から単語を詰め込もうとしても効果がない。ヴィッテの父は、食卓上の物や、室内の物や、庭園の花や虫などを捕まえてそれに関してヴィッテと話をする。そうしてその話のうちに、新しい単語とその意味をうまく教えるのである。もちろんその話は、初めのうちはきわめて簡単なものである。それを根気強く毎日やるのである。

こうしてヴィッテが少し話がわかるようになると、父と母は毎日彼にお話をして聞かせた。幼い子供には、お話ほど大切なものがない。お話は子供のこの世の知見を広めるのみならず、その語彙を豊富にする。ヴィッテの父は、ヴィッテにお話をして聞かせるばかりでなく、それをヴィッテに繰り返させた。こうしなければ、お話の効果を十分に収めることができない。

ヴィッテはこういう教育を受けた結果、5・6歳までに約3万という多数の単語をやすやすと覚えたそうである。実に驚くべきことではないか。しかも、ヴィッテの父の言葉の教え方には、決して見逃してはならないことが1つあった。それは彼が、ヴィッテにカタコトや方言やなまり等を教えなかったことである。赤ちゃん言葉を子供に覚えさせるのは彼に意wせれば無駄なことである。ヴィッテが正しく発音することができれば「うまい、うまい」と言って頭をなでて褒めてやる。しかし、正しく発音することができない時は妻に、「お母さん、カールは何々と言えないよ」などと言う。すると妻も、「そうですか、そんなことを言えないんですか」などと答える。そこでヴィッテは幼いながらも、一生懸命になって努力する。このようにして、彼は極めて幼いうちにたいていな言葉を完全に発音することができるようになった。その結果、彼はまだ親に抱かれているうちから、言葉がきわめて明晰であった。

次にヴィッテの父は、ヴィッテがいつまでも子供くさい単純な言い回しだけに止まらず、だんだん複雑な言い回しを了解したり、使用したりするように教育した。そしてその言い回しは、極めて明瞭正確を期し、決して曖昧な言い回しを用いないように教育した。頭を明瞭にするには、まず言葉を明瞭にしなければならないとは彼の持論であった。それには自分ら夫妻が模範とならなければならないと考えて、彼らは正しいドイツ語を正しく発音し、よく精選した適切な言い回しを用いることに努力した。

ヴィッテの父は、ヴィッテに3歳半ごろから読書を教えた。しかし、それは決して無理に教えたのでなかった。「強いて教えるな」とは、彼の教育の大方針であった。彼は必ず、まず、子供が興味を起こすように仕向ける。そして子供が興味を起こせば、その時初めて教え始めるのである。読書を教える場合にもそうであった。彼はまず、子供向きの絵や絵本を買ってきて、それについてヴィッテに面白く話して聞かせ、「お前が字を読むことができれば、こんなことはみな分かるんだがな」などと言って、幼い心を刺激する。あるいは全く話をして聞かせないで、「この絵の話は非常に面白いんだが、とても話をする暇がない。」などという。するとヴィッテは、なんとかしてじを読むことを覚えたいものだという考えを起こす。そこで初めて字を教え始めるのである。

彼の字を教える方法は、今日学校で教えるような方法ではなかった。彼はまず10センチ四方くらい大きな活字で印刷したドイツ字と、ローマ字と、アラビア数字を10組ずつ買ってきた。次にそれを10センチ四方くらいな子板に貼り付け、それを使って遊びの形で字を教えた。もちろん初めは母音から教えて、次に「つづり遊び」と言う遊びで綴りを教えた。一度読み方を覚えると、彼は言葉をたくさん知っているし、それに正しいドイツ語を覚えているから、極めてたやすく本を読むことができた。このあたりは子供を持っている親が、よく考えてみる価値のあることだと思う。子供が学校でよく覚えられない原因は、主に言葉を知らないためである。

ヴィッテは、ドイツ語を自由に読むことができるようになると、次にフランス語を始めた。それは彼が6歳の時であったが、これは1年ほどで色々な本を自由に読むことができるようになった。これは彼にドイツ語の知識が十分にあったためである。これに反して我が国の中学生などが、外国語を覚えるに非常に困難なのは、1つは彼らに自国語の知識が十分ないためである。

ヴィッテはフランス語を覚えると、次にイタリア語を始めたが、これは6ヶ月で覚えた。これにおいてヴィッテの父は、今度こそは、ラテン語を教えてもよかろうと考えた。ラテン語は難しく、西洋人にとっても頭痛の種である。そこでヴィッテの父は、ヴィッテが7歳の時に彼を連れてたびたび音楽会に行った。すると中休みの時にヴィッテはオペラの歌詞を書いたパンフレットを見て、「お父さん、これはフランス語でもイタリア語でも¥ありませんね。これはラテン語ですね。」と言った。そこで父は、「ああそうだよ。お前1つその意味を考えてごらん。」というと、ヴィッテはフランス語とイタリア語から演繹して、大抵その意味がわかった。そうしていうには、「お父さん、ラテン語がこんなに優しい言葉なら、早くラテン語を習いたいな」と。父はここにおいて、これで大丈夫だと考えて、初めてラテン語を教え始めた。するとヴィッテはこれは9ヶ月で覚えた。次にヴィッテは英語を3ヶ月、ギリシア語を6ヶ月で覚えた。子供の能力を枯死させないで、早くからうまく教育すると、子供は実にこういう勢いである。

最後に、ヴィッテの父の外国語の教え方について、注意すべき点を述べよう。第一にヴィッテの父は、外国語は覚えるよりも慣れろという主義をとった。だから彼は、文法を組織的に教えることはしなかった。子供に文法などを教えてもわからないとは彼の主張であった。これは全くそう思われる。大人には、文法を基として外国語を習う方法fは有効である。しかし子供には、ヴィッテの父がとった「覚えるよりも慣れろ」という主義でなければならない。子供は全て、自国語をこの主義によって覚えるではないか。次に子供は、同じ話を何回聞いても飽きないものである。大人こそ小説などを一度読めば、あとは見返りもしないが、子供は同じ話を何回でも喜んで聞く。我々は子供を教育するとき、大人の心で彼らを推し量ってはならない。ヴィッテの父はこの秘密を心得ていて、外国語を教えるとき、同じ話を色々な国語で読ませた。例えばイソップ寓話を、ドイツ語でも読ませればフランス語でも読ませる。イタリア語でも読ませればラテン語でも読ませる。またギリシア語でも読ませるという方法をとった。そしてこの方法は非常に効果があった。

しかしヴィッテの教育は決して外国語ばかりではなかった。しかも彼の生活は決して机に座っているばかりの生活ではなく、彼が机に座っていることはどんな少年よりも少なかった。そんな教育法で彼は外国語の他に植物学、動物学、物理学、化学、数学などをやすやすと学んだ。

ヴィッテが3〜4歳になると、父は毎日彼を連れて、必ず1〜2時間ずつ散歩をした。その散歩はただぶらぶら歩くのではなく、絶えずヴィッテと話をしながら歩くのであった。例えば野花を積んでそれを解剖し、これは何それは何というふうに説明して聞かせる。あるいは小虫を捕らえてそれに関して色々な知識を与える。このようにして石ころひとつ、草一本といえども話の材料になるのであった。しかしその教え方は決して詰め込み主義ではなく、まずヴィッテに興味を起こさせ、それに応じて適当に教えるのであった。ヴィッテの父の教育の秘訣は、子供に興味と疑問を起こさせて、それに答えることであった。ヴィッテの父は質問することを奨励して、丁寧にそれに答えるのであった。ヴィッテの父の説明は決して難しいものでなく、子供の既知の知識でわかるように、よく考えたものであった。また自分の知らないことを尋ねられた時は、「これはお父さんも知らない」と正直に答えて、二人で書物をみるとか、図書館に行くとかして研究するのであった。

動物学や植物学の教育は上のようにして始めたが、地理の教育は次のようにしてはじめた。彼はまず幼いヴィッテを連れて、たびたび周囲の村に散歩に行った。こうして近隣の様子がかなりわかった頃、自分の村に高い所があったが、紙と鉛筆を持ってこのようおに登り、ヴィッテに四方を見渡させた。そうして、あそこはどこかわかるか、あそこはどこか知っているかというふうに尋ねて、わからない時は説明して聞かせ、次に二人で、主にヴィッテに周囲の略図を欠かせた。その後また二人でサンンポに行って、その略図に道路や川などをかき入れ、ついに近隣の地図を完成した。次に本屋でこの地方の地図を買い、自分らの作った地図をこれと比べて訂正して、子供にわかりにくい地図の観念を与えた。

物理学や数学の教育も同じような方法で始めた。天文学は学者から教わった。彼はヴィッテを気に入り、自分の家に呼んで、自分の望遠鏡で親切に教えてくれた。この人は学問が道楽で、天文学の機械の他に、物理学、化学などの機会をたくさん持っていた。また、色々な本をたくさん持っていたが、寛大にこれらの機械と本の使用をヴィッテに許した。その結果ヴィッテは、色々な学問を思う存分に勉強することができた。

ヴィッテの父は、教育上大切なことは、子供の頃に学問を詰め込むことよりも、その見聞を広めることだと考えていた。それで彼はあらゆる機会を利用して、ヴィッテの見聞を広げることに注意した。彼はヴィッテが2歳の時から、訪問にでも買い物にでも、音楽会にでも劇場にでも、どこにでも連れて行った。また暇さえあれば彼を連れて、博物館、美術館、動物園、植物園などはもちろん、工場でも鉱山でも、病院でも、養育院でも、あらゆるところを訪問して、彼の見聞を広くした。彼はこれらの訪問から家に帰ると、ヴィッテに見たことを詳しく話させた。あるいは母に報告させた。だからヴィッテは見物中よく注意してものを観察し、また父の説明や案内者の説明を、よく注意して聞くのが常であった。

ヴィッテの父は、ヴィッテが3歳の頃から彼を諸法に連れて行った。その結果、ヴィッテは5歳までに、ドイツの大都市は大抵見物した。彼らはその途中で山に登り、名所に行き、旧跡も尋ねれば古戦場も弔うのであった。そしてヴィッテの父は旅先でヴィッテに見たことを手紙に欠かせ、それを母や知人に送らせた。ヴィッテの父は、ヴィッテの知識欲や探究心を満足させるためには、金や労力を決して惜しまなかった。

ヴィッテの父は、ヴィッテのためにいわゆるおもちゃはほとんど買わなかった。「子供はおもちゃによって何物も覚えない。子供におもちゃくらいを持たせて、投げっぱなしにしておくのは誤りである。」とは彼の持論であった。そうして実際ヴィッテは幼い時から、本を読んだりものを観察したりすることを知っていたから、おもちゃで暇を潰す必要がなかった。おもちゃぐらいを持たせて投げっぱなしにしていれば、子供は退屈してすぐに不機嫌になり、それを壊したり泣いたりするのがオチである。ヴィッテの父は、このようにして得た破壊癖は子供に一生つきまとうと行っている。

ヴィッテの家の庭には、ヴィッテのために作られた大きい遊び場があった。ヴィッテはここで花を解剖したり、虫を捕まえたりして自然に親しんだ。ヴィッテの父は子供を自然に親しませることを最大の教育と考えていた。

ヴィッテはまた、おもちゃの台所道具を一式持っていた。一体子供は大人のすることをなんでもしたがるものである。そして台所の仕事には特に手を出したがる。これをうまく利用すれば、大いに子供の知識を増やすことができるのである。ヴィッテの父はここに着眼して、ヴィッテにおもちゃの台所道具を揃えてくれたのである。

ヴィッテの母は、他の母と違って、台所の仕事をしながら、ヴィッテの尋ねることをなんでも丁寧に説明して聞かせた。次におもちゃの台所道具で彼が色々な料理をする真似をさせた。例えばあるときは、ヴィッテが主婦の役をつとめ、母がコックの役を勤める。ヴィッテが主婦で母がコックであるから、母のコックが色々な用事を言う。そしてヴィッテの命令がうまくいかなければ、主婦の資格を失ってコックに成り下がるのである。そうなると、今度は母が色々な命令を下す。例えばなになにをこしらえるから、畑に行ってそれをとってくるように命ずる。そしてヴィッテが間違った材料を採ってきたりすれば、今度はコックの資格も失って解雇されるのである。

ヴィッテの遊びは、こういう芝居的なものがたくさんあった。そしてその指導者は、もちろん母であった。彼らはしばしば、お話や本で読んだ歴史上の事件なども演じた。また、かつてやった旅行を繰り返す「旅行遊び」というものもあった。そうしてこれらの遊びは、ヴィッテの地理や歴史に関する知識を正確にする効果があった。

ヴィッテの父は、ヴィッテのために色々な形の目円を用意し、それを使って小さな家を立てたり、あるいは教会や父を立てたり、あるいは橋や城を作ったりした。建築遊びはよく考えてしなければならないから、非常に子供のためになる。ヴィッテの父は遊びを通じて彼の五感発達させることを務めた。子供の遊びといえども、馬鹿げたものであってはならない。相応に頭を使うようなものでなければならない。そうすれば、子供が退屈して、泣いたりむずがったりすることが少ない。ヴィッテの父はこう書いている。息子はわずかなおもちゃしか持っていないが、どんなに冬が長くとも、決して退屈しない。彼はそのわずかなおもちゃを使って、常に愉快で幸福である。

またヴィッテの父は、子供の精力が消化にばかり費やされているようでは頭がよく発達することができないと考えた。なので、胃袋を過労させるな、必要以上に食わせるなという主義をとった。

多くの子供は、食べ物に対して飽きることを知らない。その結果食いすぎて、しばしば病気になる。しかしこれは子供の天性ではなく、親の無知から起こる習慣である。ヴィッテの父はこの点によく注意し、許しのない間食を禁止した。そして、ヴィッテに健康の大切なことをしばしば説いて聞かせた。「人はくいすぎると、頭がぼんやりとなって気分が悪くなる。時としては病気になる。病気になると、苦しい思いをしなければならないばかりか、勉強することもできなくなるし、遊ぶこともできなくなる。そればかりかお前の看護のために周りの人にも大きな迷惑がかかる。」というようなことであった。親が子供を愛するあまり、無制限に食物を与えるから子供の食欲がだらしなくなるのである。子供の精力が消化にばかり費やされているようでは、到底頭がよく発達することはできない。

ヴィッテの父は、勉強時間と遊び時間を厳格に区別して、勉強時間には一心不乱に勉強する精神を鼓舞した。ここでいう勉強とは、6歳の時からフランス語を教えたような課業のことをいう。彼の教育にはいわゆる勉強時間と遊び時間の区別がなく、遊びや散歩や食事の時間にも、注意してヴィッテの知識を広めることに努めた。こういう課業は初めは毎日15分ずつであったが、この間ヴィッテは、一心不乱に脇目もふらず、緊張して勉強しないと父に叱られるのであった。ヴィッテの父は、物事をぐずぐずしないで迅速にやってのける習慣をつけた。彼はヴィッテがぐずぐずしていれば、その出来栄えがよくとも喜ばなかった。これはヴィッテを敏活にする効果があった。その結果ヴィッテは運動休息社交などの時間がたくさんあった。よには机に向かってから1時間もぐずぐずしないうちは仕事に手が付かないという人がいるが、これは習慣が悪いためである。

ヴィッテの父は、ヴィッテが語学や数学をいい加減に学習することを禁じた。彼はヴィッテに徹底的に学ぶ習慣をつけた。彼の教育方法はレンガを積み上げるようなふうであった。彼はこうしていなければ決して良い結果を得られないと考えていた。世には学者と言われる人で、そのいったり書いたりすることが、他人にはサッパリわけのわからない人がいる。父はこれはその人が修学の際、色々な言葉を不正確に了解したり、色々な事実をただ覚えたりした結果だといっている。彼はこういう学者を偽学者と罵っている。彼の教育主義は徹底的精習主義であった。

父がヴィッテの教育のために費やした時間は毎日1〜2時間であった。彼は牧師として忙しい人間であったのである。彼はヴィッテを教育して、子供の能力の発現力のいかに大きいかを初めて悟ったと書いている。子供の能力は、期間を逃さずに出口を見つけてやれば、あとは泉のように流れ出る。ヴィッテの父は、初めのうちこそ苦心してヴィッテを教育したが、後には語学でも、またそのほかの学科でも、ヴィッテはたいてい独学で覚えた。そうしてある学科は8歳の頃には父以上に進んだ。

父は、ヴィッテを天才にしようとして育てたわけでなく、ただ円満な人に育てようと考えた。だからありったけの知恵を絞って事情の許す限り、彼を健全な、活動的な、幸福な青年に育て上げようと努めた。体においても精神においても円満な人になって欲しかった。だから、ヴィッテがギリシア語だけに熱中したり、ラテン語だけに熱中したり、あるいは数学だけに熱中したりした時は、早速その矯正策を講じた。また父は、妻と協力して、息子の常識、想像力、趣味などの涵養に苦心した。また、ヴィッテの好き嫌いが気分や感情によってではなく、高い道徳と慈愛の心によって規定されるようにしようと努めた。父は息子を偏屈な学者にしたいと考えたことなどなかった。ましてや天才に育てようなどおこがましいことを考えたことなど一切なかった。

父の教育は決して頭の良さを育てるだけのものではなかった。円満な人を作るのが父の理想であった。だからヴィッテの頭が良くなったのは全く彼の意外であった。円満な人に育てようとして、特に力を入れたのは、知育よりはむしろ徳育であった。ヴィッテは子供の頃から信仰心に厚く教育された。その結果、子供の頃から驚くほど聖書に通じていた。特にキリストの子土場などは、いちいち暗記していた。ヴィッテは愛心深い、優しい子供であった。彼は子供の時から人と争ったことが一度もなかった。彼は、一生紳士のお手本であった。

子供の躾は、初めからさえしっかりやれば、子供はいささかの苦痛も感じない。子供が厳格な躾のために苦しむのは、始め方が悪いからである。子供の躾はれんがを積み上げるように、土台からしっかりやらなければならない。父の子供の躾の根本原理は、否はあくまでも否とせよということであった。いけないことは、いつでもいけないとする。ある時は許してある時は許さないというようなことでは、かえって子供に苦痛である。我々はかつて持ったことがないものに不足することはない。いけないことは初めからいけないとすれば、子供に苦痛がない。ヴィッテの父はこの理にしたがって、一才の時からいけないことは断じていけないとした。今のうちは少し許しておけ、もう少し大きくなってから禁じようというようなことは、彼は決してしなかった。ところが、世間一般の親のやり方はこれである。だから子供は苦痛を感ぜざるを得ない。また彼らの「いけない」は、極めて気まぐれで、終始一貫していない。ある時はいけないことでも、ある時はいけなくない。だから子供のうちに、いつしか親の「いけない」には掛け値があるという観念ができる。子供の躾が難しくなるのはこの観念の結果である。従って子供をよく躾るには、親は物事の善悪に関して、首尾一貫とした態度を持っていなければならない。また父と母が同意見でなければならない。父はよくここに注意していた。彼は知育においても、体育においても、常に妻と協力してやった。

父の躾け方は、厳格であったが、決して専制ではなかった。彼は躾け方においても、他の面においても、常に合理的ということを重んじた。彼は子供の理性を曇らせないこと、子供の判断力を狂わせないことを、教育上最も大切なこととした。だから彼は、子供を叱るのに、子供がなぜ叱られるかわからないような叱り方をしなかった。父は努めて事実を見極め、子供を不当に叱らないようにした。そして、叱ったり禁じたりするときは、その理由をこんこんと納得するように説明して聞かせた。こうすれば、子供の理性を曇らせたり、判断力を狂わせたりする恐れがない。父は、子供の判断力を狂わせると、一生、物事を後世に判断することができなくなるといっているが、こういう被害者は世間に数え切れないほどたくさんいる。そしてそのために社会の進歩の阻害されることは非常なものである。

父は他の親のように、子供を野放しにしておくことを厳禁した。彼の説によると、子供は野放しにしておくと、相手を選ばずどんな子供とでも遊ぶかrった、色々な悪徳を覚える。例えば人柄が悪くなる。時にはオナニーを覚える。彼は子供が賭博しているのを、何度も見た。また、彼らが喧嘩しているのをいくたび仲裁してやったかわからないといっている。子供は実に考えのないもので、よくすなや石ころを投げ合って遊ぶ。その結果鼻血を出したり、怪我をしたり、時には目を潰したりする。実に危険な話である。

人々が重ね重ね、子供は遊び友達がいなくてはいけない。遊び友達がないと、子供に楽しみがない。その結果子供は、不機嫌になって強情になると勧めるので、父はついに自分の主義をまげ、妻と相談して、二人の少女を息子の遊び友達に選んだ。これらの少女は近所で最も躾の良いものであったし、歌やダンスが上手で、息子は彼女らと楽しく遊んだ。ところが父が思った通りその結果は良くなかった。彼女らと遊ばせてから強情でなかった息子が強情になり、決して嘘を言わなかった息子が嘘を言うようになった。また、下品な言葉を使うようになり、わがままで傲慢になった。これは少女らが何事にも彼に逆らうことがなかったからである。そこで父は少女らに、あまり息子の言う通りになってくれるな、息子があまりわがままだったら知らせてくれるように頼んだがダメであった。だから父は、再び息子を他の子供と遊ばせないようにした。子供が他の子と遊ばなければ、楽しみがないと思う考えは、極めて間違った考えである。子供たちだけで遊べば、言いたいことを言い、したいことをし、勝手きままができるから、それを好むのは当然である。人々はこういうことを子供の楽しみというのだろう。しかしこんな楽しみは、むしろないほうがいい。親が子供のような心になって、一緒に遊んでやれば、子供は楽しく、しかも無害有益に遊ぶことができる。そうして、強情になったり、わがままになったり、意地悪になったり、悪習に陥ったりしない利益がある。子供だけで遊ぶことは、相手がよくとも弊害があるが、相手が悪ければ、その弊害はますます甚だしい。悪い子供の習慣は、非常に速く子供に伝染する。思うに、良い習慣は、力と自制を要するけれども、悪い習慣は、何の努力もなく覚えることができるからである。だから学校というものは、この意味に置いて子供の悪習の持ち寄り場であって、非常に危険なところである。そしてその危険は、生徒の質の悪い学校において特に甚だしい。だから家庭で学課を十分に授けることができるなら、子供は学校にやりたくないものである。しかしこれは、多くの家庭では不可能なことであるから、学校ではできる限りこの点に注意して、生徒の遊び時間には十分に監督してもらいたいものである。

もちろん、絶対的に他の子供と遊ばせない方が良いということではない。時々、親の監督の下に交際させるのである。時々の交際であれば、互いに遠慮して馴れ合わないから弊害がない。父はヴィッテの交際をこのように制限したが、その結果は非常に良好であった。ヴィッテは色々な悪習に馴染んでいないので、決して他の子供と争ったり、喧嘩したりすることがなかった。息子は家庭で争いというものをする機会がなかったから、他の子供のようにたやすく激するということがなかった。どんな意地の悪い子供でも、息子をお凝らすことができなかった。だから息子はたいていな子供に好かれ、決して争いはしなかった。ヴィッテは常に理性に従っていたので、自然と多くの友を得た。そして彼らのあるものはヴィッテと非常に親密であった。以上より、子供は遊び友達がいなくては楽しみがない、その結果不機嫌になって強情になるという考えは誤りだと断言する。そして、子供は子供同士で遊ぶことを好むから、そうさせなければならないという説に至っては、あまりにも馬鹿馬鹿しいものである。

父は、ヴィッテに善行を勧めるために色々と苦心した。即ちヴィッテの幼いうちは、善行を勧める古今の色々な話を語って聞かせ、特に聖書の中の話をよく話して聞かせた。そして、ヴィッテが善いことをすれば、「よし、よくやった」というふうに過度になりすぎないように褒めた。また、妻や親友には「ヴィッテは今日、こういうことをした」というふうに話して聞かせた。ヴィッテが少し成長すると、父は彼に色々な道徳詩を暗唱させた。また父は、ヴィッテの「行為録」というものを作り、彼が善いことをすればそれに書き、永く記念にするようにした。これにあげまされて、幼いヴィッテは、自分の一生を立派なものにするために、一生懸命に努力した。父が最も努力したのは、ヴィッテが善行そのものを楽しむことができるようにすることであった。善行をしたときの喜び、己に克ったときの喜び、これらの喜びの味を覚えさせることであった。言うまでもなく、子供にこれらの味を覚えさせることは極めて難しい。習わせれば、善行そのものの楽しみの味でも、己に克った喜びの味でも覚えさせることができる。父は、力を尽くして善行をすれば、それだけ神の目に大なるものとなるという考えを注ぎ込もうと努めた。またしばしば、悪事を行った者の話をした。これもヴィッテに善行を勧める手段であった。

しかし、善行を勧める手段と、勉強を勧める手段は少し違っていた。一言で言えば、彼の方針は、「勉強は我々にこの世の幸福をもたらす。しかし善行は我々に神からの祝福を与える」。だからヴィッテがよく勉強すれば、1日1ペニヒ(1円ぐらい)の報酬を与えた。しかしよく勉強しても、行為に過ちがあれば、その1ペニヒの報酬は与えなかった。ヴィッテの父はこんなことも書いている。金をくれて奨励しながら勉強をさせたといえば、おかしく思うかもしれない。しかしこれは、「勉強は我々にこの世の幸福をもたらす」ということを知らせるためであった。父は、「恥ずかしいことだが、私は息子がよく勉強した日は、1日1ペニずつ与えた。しかしこのことは、報酬をえることのいかにこんなんであるかを息子に知らせる効果があった」と書いている。それでは、その与えた金はどうしたかというと、それをできるだけ賢く使う方法を習わせた。菓子や何かを買えば、それはつまらなくなってしまうが、書籍や道具を買えば末永く役に立つ。また、クリスマスなどに友達や貧しい家の子供に贈り物などをすれば、彼らは非常に喜ぶということを覚えさせた。また、父が寄付をするときにヴィッテも自分の貯金から寄付をし、そうするたびにヴィッテを褒めた。

ヴィッテの父は、ヴィッテの勉強を励ますためにこんな無邪気なこともやった。それは、ヴィッテが一冊の本の稽古を終えたり、訳読を追えたりすれば、これを非常な重大事として、その著書の名前を呼んで、「ホーマー万歳」とかと二人で叫ぶのである。そして、ヴィッテの好きなご馳走を作り、数人の親友を呼んでパーティーを開いた。途中で父は、「今度の本は難しい本だったが、ヴィッテは非常な勉強と忍耐を持って、ついに読み通した。そのために学力はよほど進んだようである。これからは、誰それのかいた何々と言う本を読むつもりであるが、その本はこういう本である。」というふうにその本の説明をする。そしてパーティーは、「神様、あなたが与えてくださった良き父母と、健康と力と、その他色々の恵によって、このように学問をすることができますことを感謝します」と言うような、神に対するヴィッテの感謝を持って終わるのである。

父は、ヴィッテが勉強したときは金を与えたが、善行に対しては決して金品を与えなかった。その代わり、それを「行為録」に書き留めた。また勉強した時よりも余計にほめた。基本的に彼は子供をあまり褒めなかった。賛辞も乱用すればその効果がなくなるからである。しかし善行をしたときは、「よしよし、よくやった。神様はさぞ御喜びになるだろう」というふうに言う。しかし決して褒めすぎることはしなかった。ヴィッテが非常な善行をしたときは、抱き上げて接吻をするのであったが、こういうことは滅多になかった。だから父の接吻はヴィッテによって非常に高価なものであった。このようにして父はヴィッテの心に、善行の報いは善行そのものの楽しみである、また神の祝福であるという考えを注ぎ込もうと努めた。父がこのようにヴィッテを褒めすぎないように注意したのは、自負心を起こさせないためであった。彼は子供が自負心を起こしたら、あとはダメだと考えた。彼はヴィッテに色々なことを教えても、これは物理上のことだとか、これは科学上のことだとは教えなkった。これはヴィッテを生意気にしないためであった。「十で神童十五歳で才子、二十過ぎれば並の人」という諺があるのは子供の自負心や自惚れ心によるものである。世に自負心ほど恐ろしいものはない。自負心は英才も天才も台無しにしてしまう。父が恐れたのはこれであった。父がヴィッテの自負心を予防した苦心は非常なものであった。彼は自分でヴィッテを褒めなかっただけでなく、他人にも決して褒めさせなかった。他人がヴィッテを褒めそうな時は、彼を部屋から出して利かせなかった。ヴィッテが少し成長すると父は、以下の言葉を絶えず話して聞かせた。知識は人の称賛をよぶ。しかし善行は神の祝福をいただく。世間には無額な人が非常に多い。そうして無学な人は、自分が知識を持たないところから、知識のある人を見ると法外に称賛する。しかし人の称賛は気まぐれなもので、得ることも簡単だが失うのも早い。極めて不安定なものである。しかし神の祝福は善行を積みに積んで初めて得られるものであるから、得ることは極めて難しいが、永久不変なものである。だから人の称賛などは、眼中に置かない方がいい。人の称賛に喜ぶものは、同じようにその悪口に悲しまねばならない。たかが人の評判に一喜一憂するのは、極めて愚かなことである。悪口を言われて悲観する人も愚かであるが、ちょっと褒められて有頂天になるものはさらに愚かである。また、人はいかに賢いの、物知りだの、知識があるのだの言っても、全知全能の神様に比べれば、大したことではない。少しの知識を持って慢心する人は実に哀れむべき人である。と言うようなことや、世間のお世辞と言うものは、掛け値8割なものだ。考えてみればおかしな話だが、この掛け値8割というのは、世間の習慣だ。だからお世辞を割引しないでそのまま信じたら、その人は間抜けである。このようなことを何回も話して聞かせ、ヴィッテに自負心を起こさせないようにした。

ヴィッテの父の教育の理想は、彼自らが言っているように、身体においても精神においても、円満な人を作ることであった。だから彼は知育徳育体育すべてを重んじた。さらに、ヴィッテの父は、これに趣味の涵養を加えた。これも極めて用意周到なもので、彼はまず自分の住宅から始めた。彼の住宅には無趣味なものは決しておかなかった。また、調和と言うことを重んじて、不調和なものも決しておかなかった。すなわち、壁は気持ちの良い壁紙を貼り、そこによく注意して選んだ絵の額などをかけ、室内の器具も悪趣味なものは1つも置かなかった。衣服も同様であって、いわゆるけばけばしいものは極力排除し、質素で上品なものだけを用いた。また、だらしのないことを排斥して、常にさっぱりと装っていた。住宅の周りには風雅に花壇を作り、春夏秋冬を感じられる庭にした。父は、文学趣味を養うことも忘れなかった。その結果ヴィッテは、非常な文学通になり、有名な詩はたいてい暗記していた。彼は決して無趣味な本虫ではなく、早くから詩文をかいた。彼の一生は法学教授であったが、同時にダンテ研究の第一人者であった。そして最初に博士の学位を得たのは数学によって出会った。これを見ても彼がいかに多方面の人であったかがわかるであろう。父は、ヴィッテの感情の成長に注意した。ヴィッテが3歳の頃である。ある日、彼の家に多くの人が来ていた。彼らはヴィッテを相手に色々な話をしていたが、そこに飼い犬が入ってきた。ヴィッテはこれを見ると、子供がよくするように、その尾を抑えて、自分のそばに引き寄せようとした。すると父はこれを見て、手を差し伸べてヴィッテの髪の毛をつかみ、恐ろしい顔をして引っ張った。ヴィッテが驚いて手を話すと、父も離した。そして言った。「お前はこんなことをされるのが好きか?」ヴィッテが赤くなって、「いいえ」と言うと、「それなら犬にもそんなことをするものではない」と言って、直ちに彼を室外に出してやった。これは1つには刑罰のためであったが、もう1つには、他の人がヴィッテの肩を持って彼の行為を非難する恐れがあったからであった。そう言うことは、非常に非教育的なことだと彼は考えていた。父はこういう教育を施して、ヴィッテに他人の身になって考えてみることを教えたから、ヴィッテは優しい、情深い人になった。彼は同胞に対して道場が深かっただけでなく、鳥や動物に対しても憐れみの心が深かった。

こんな教育を受けながら7歳半になると、ヴィッテの学業は驚くべく進歩して、巷でも有名になった。その結果色々な人が彼を試験にきたが、誰もが舌を巻いて帰ったので、彼の名はますます有名になった。ある試験では、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、フランス語で流暢に色々な質問に答えた。そして数学の試験でも素晴らしい結果を出した。

ドイツ人には古来面白い気性があり、学者を非常に尊重する。ドイツの栄えた原因の1つはこれである。ヴィッテの名前が天下に知れ渡ると、ライプツィヒ大学のある教授と同市のある有力者とが、ヴィッテを同大学に入学させようと考え、試験を受けるように父に勧めた。父は初めは無茶な試験をされては困ると考えて拒絶したが、再三の勧めについに承諾した。彼らはヴィッテに試験されるという考えを少しも起こさせないで、談話のうちにうまく試験した。それは1809年12月12日のことであった。試験が終わると、彼らは証明書を書いて与えたが、その証明書は、「彼は語学の力ばかりでなく、非常な理解力と非常な知識を持っている。この驚くべき少年は、父の教育の結果だそうだが、その教育法は学者の注意に値すると思う。とにかく、この少年は大学に入学する学力を十分に備えている。だから学問の進歩のために、こういう少年を大学に入学させて学問出せることは、極めて必要なことである。」という意味のものであった。この後、国同士のヴィッテの取り合いがあり、結局ヴィッては9歳からゲッチンゲン大学に入学し、ここに四年間留まった。彼の修めた学科をあげると、一学期には古代史と物理学の講義を聞き、二学期には数学と植物学、三学期には応用数学と博物学、四学期には化学と解析学、五学期には測角学と実験化学及び鉱物学と微分積分学、六学期には実用幾何学と光学および鉱物学の継続とフランス文学、言語学などの講義を聞いた。ヴィッテの大学生活は余裕綽々であった。10歳前後の少年が、20歳前後の青年の間に伍して勉強するのであるからずいぶん大変な生活であったろうと思うが、思いのほか余裕綽々で、彼は盛んに遊び、盛んに運動した。彼はよく動物や植物の採集に出かけた。そうかと思うと、絵も描けばピアノも弾く、ダンスもやるという有様であった。それから講義の他に、古典ごと近代語の研究は1日も怠らなかった。父はヴィッテの健康を非常に注意して、槍が降ろうが火が降ろうが、戸外活動を日課として必ず実行した。父は、専門の選定は18歳前後にすべきものだと考え、それまでは色々な学問をやらせた。ゲッチンゲン大学の後にハイデルベルヒダオがぃも入学して法学を納め、16歳で法学博士の学位を授けられた。同時に彼はベルリン大学の法学教授に任命されたが、教鞭をとる前に、プロシア王からイタリアに留学を命じられた。しかし父は、あまり若くて一人で外国へやるのは心配だからと猶予をもらい、1818年、彼が18歳になってから初めてイタリアに出発させた。

ヴィッテの受けた教育は以上のようなものであった。そういう教育を受けて彼の健康はどうであったろうという人があるかもしれない。これはもっともな疑いであるが、彼は子供の時も大人になってからも、極めて健康であった。そういう教育を受けていては、終始机にばかり座っていて、楽しいはずの子供時代が、少しも楽しくなかったろうと考えるかもしれない。しかし、これも決してそうでなかった。早くから真理の味を味わい、学問の楽しさを知っていたヴィッテは、どんな子供よりも幸福であった。その上、彼の父の施した教育は、これまで述べたように極めて賢明なものであったから、彼が机に齧り付いている時間はきわめてわずかであった。だから彼は盛んに遊び盛んに運動する時間を持っていた。

ヴィッテは早くから物事の訳がわかっていたから、他の子供のような聞き分けのないことは決してなかった。また思慮分別が十分にあったから、他の子供が彼と遊んで愉快であった。彼は他の子供が足元にも寄り付けないほど知識が進んでいたけれども、少しも傲慢なふうがなく、決して他の子供に嫌われるようなこともなかった。それどころか彼と遊べば、親切で愉快で、しゃくに触るタネがなかったから、全ての子供が彼と遊ぶことを喜んだ。彼は他の子供が無理をしても、それを適当にあしらって、決してそれに楯突くような愚者ではなかった。昔から「学者、必ずまぬけた面っつき」と言われるが、ヴィッテは子供の時も大人になってからも、決してドライな本虫ではなく、全ての相手に快感を与えた。彼は子供の時から古今の文学に通じていたばかりでなく、自分も早くから優れた詩文を描いた。彼の人格は人としても学者としても極めて円満であった。

→中編に続く

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